2007年 大阪大(法・経済・人間科) 第三問
(問題)次の文章を読んで、後の問い(問一~問四)に答えなさい。
兼家公の忍びて通ひ給ひし程の歌など書き集めて、蜻蛉日記と名づけられたるは、すなはちこの道綱の母の作なり。その日記には天暦八年より後天延二年まで、およそ二十年ばかりの事もあり。さてかの日記の天暦九年の所に、十月の末に三夜ばかり打続きて兼家公のおはせざりし事ありて、(A)暁方に門を叩くことせし故、おはせしにやと思はれたれど、この程はほかに通はせ給ふ所のありげなれば、わざと門をあけ給はざれば、定めて例の所へおはしけんと思ひ居給ひけれど、あくる朝になりて、
嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る
と詠みて、(B)いつもの文よりは引きつくろひて、うつろひたる菊の花にさしてやり給ひしかば、兼家公の返事に、夜前そなたへ参りたれど、門をあけ給はざる故、夜のあくるまで立ちて待つべしと思ひつれど、禁裏より御使賜はりたればよん所なく帰りぬ。ほかにあかせしにやと疑はるるもむべなる事ながら、など書きて、かの歌の返しに、
(C)げにやげに冬の夜ならぬ槙の戸も遅くあくるはわびしかりけり
これは、かの女君の歌にひとり寝をして夜のあくるを待つは、いか程久しきものと思し召さるるぞと詠み給へるを受けて、まことにそなたの申さるる冬の夜のあくるを待つ間は久しきものにてあらんが、その冬の夜にはあらぬ槙の板戸も、遅くあくるを待つは苦しきものにてありけりといふ心なり。(D)さてこの嘆きつつの歌の事書を、後の拾遺集にはその夜の贈答のように書きたれど、蜻蛉日記を見れば、翌朝の贈答なり。
(『百人一首一夕話』による)
問一 傍線部(A)の内容を、誰の行為かを明確にした上で、八〇字以内で説明しなさい。
問二 傍線部(B)を現代語訳しなさい。
問三 傍線部(C)の和歌を、本文に即して現代語訳しなさい。
問四 傍線部(D)では、「嘆きつつ」の和歌について、拾遺集と蜻蛉日記の違いを述べている。本文は蜻蛉日記の記述に即して書かれているが、拾遺集には、「入道摂政(=兼家)まかりたりけるに、門を遅くあけければ、立ちわづらひぬといひ入れて侍りければ」とある。この拾遺集の記述について、蜻蛉日記との違いがわかるように、八〇字以内で説明しなさい。
(解説)
本問は、1999年東京大文系第五問の類題であり、『蜻蛉日記』「うつろひたる菊」の履修の有無により答案の出来を左右するものと考えられる。なお、1997年神戸大(医-保健)、2002年宇都宮大(農・教育)などのように、『蜻蛉日記』「うつろひたる菊」自身を出題する大学も存在する。
問一
傍線部(A)を「説明しなさい」とあるが、主語を補って現代語訳し、文末を整える程度でよい。特に難しい部分はない。
問二
傍線部(B)の主語は、道綱母である。「引きつくろふ」は、「体裁を整える、改まる」、「うつろふ」は、「色あせる」の意味。兼家からの訪れが途絶え、愛情が感じられなくなった道綱母は、皮肉の意味を込めて、手紙を色あせた花に添えて、兼家の許に届けたという論理である。
問三
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