2013年3月26日火曜日
93年東京大文系国語
1993年 東京大 文系 第五問
(問題)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
ケレーニイは、旅行者の基本的な態度を、ヘルメス型とゼウス型の二つに分けている。旅において日常の自己から離れ、別世界に投入しようとするのがヘルメス型、旅先でも常に日常生活の原則を守り、旅宿をもわが家にしてしまわねば気がすまないのがゼウス型、というわけである。
このように分けた所で、明確な線が引けるという保証はない。たとえば芭蕉が『おくのほそ道』の冒頭に記した「日々旅にして旅を栖とす」という言葉など、ア日常性への固執を排し一所不住の志を示したと見ればヘルメス型だが、旅を「日々」の常態にしてしまっている、つまりそういう形での日常に安住していると取ればゼウス型だともいえる。実際、イ芭蕉がその衣鉢を継いだ前代の旅人たちが、歌枕を訪ね、あらかじめ指定されている名所を目指して遍歴したのは、かねてから心に貯えていたイメージや知識を、行った先でたしかめただけのことで、別世界に赴いたとは到底いえないと考えればそれまでである。
結局は、自分の現在の生活に何の疑問も抱かず、自信満々の態度でどこにでも踏み込んで平然としておられる剛の者を、旅人と呼べるかどうかである。ヘルメスは人間の魂を生から死の世界へ導く神、日本なら道祖神に当たる。「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」、歌枕をめざす雑踏は、生から死への旅にもなぞらえられ得るので、いずれにせよあだやおろそかなことであるはずはない。ゼウスは世界に遍在して到る所を自分の支配下におく神だから、円の威力にものを言わせて全世界を股にかけるウ現代日本の旅行者にはふさわしい守護神だが、ケレーニイの考えでは、この神のもとではエ旅の奥義は悟られないのである。
(川村 二郎「書かれた旅17 旅の奥義はヘルメス型」による)
注 ケレーニイ ハンガリー生まれの神話学者。
問一 「日常性への固執を排し一所不住の志を示した」(傍線部ア)とはどういう意味か、わかりやすく説明せよ(13.8cm×2行)。
問二 「芭蕉がその衣鉢を継いだ前代の旅人たち」(傍線部イ)にはどのような人物が考えられるか、一人挙げよ。
問三 「現代日本の旅行者にはふさわしい守護神」(傍線部ウ)を、全体の論旨に即して、自分のことばで説明せよ(13.8cm×2行)。
問四 筆者の考える「旅の奥義」(傍線部エ)とはどういうことか、簡潔に説明せよ(13.8cm×2行)。
(解説)
東大文系が、150分で7問を解答させていた時期の問題である。その頃は、現代文、古文、漢文ともに文章量が今よりもずっと少なかったが、それでも1993年のこの問題文は、かなり短い。
問一
傍線部アは、ヘルメス型についての言及である。それを踏まえて、「一所不住」の意味を、文脈に沿うように説明することが求められている。広辞苑には、「一定の住所を定めないこと」と説明されているが、これは、この文脈においては、「旅によって各地を点々し、自分の居所を定めなかった」ぐらいで解せばよい。これを中心に、第1段落で述べられているヘルメス型の特徴も踏まえて、解答をまとめればよい。
問三
傍線部ウは、「ゼウスが、現代日本の旅行者にふさわしい守護神だ」という意味であることをまずは確認すること。これが理解できれば、本問は、「ゼウスは、なぜ現代日本の旅行者にふさわしい守護神なのか」という理由説明問題に帰着することができる(ただし、解答の構文は、設問の要求を満たすように書くこと)。
では、その理由は何か。ゼウスと、現代日本の旅行者には、ある共通点があるからである。現代日本の旅行者の特徴である「円の威力にものを言わせて全世界を股にかける」というのは、言い換えれば、「経済力によって半ば強引に世界のあらゆる地域に進出する」ということである。よって、「ゼウスと現代日本の旅行者は、世界各地を支配しようとする」という共通点を見出すことができる。これを中心に、「自分のことばで」まとめる。
問四
筆者の考える「旅の奥義」とは、当然ながらヘルメス型である。第1段落、第2段落から、ヘルメス型に関する次の記述を得るが、(2)は、傍線部アと同一箇所であるため、問一との解答の棲み分けが求められている点に注意が必要である。
(1)旅において日常の自己から離れ、別世界に投入しようとする
(2)日常性への固執を排し一所不住の志を示した
また、ヘルメス自身については、第3段落に次のような記述(3)がある。これを踏まえて(1)(2)を要約する必要がある。ただし、(3)は、あくまでヘルメス「自身」の記述であることに注意し、実際の解答においては、「生」や「死」などの言葉を用いないようにすること。
(3)人間の魂を生から死の世界へ導く神
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